大村雪乃
大村雪乃
画家丸シールアート
■アートコンセプト
日本国内では現在、アートを知っている世界と、アートのことを知らない世界に分断されているように見える。
アートのどんな人も受け入れ、楽しむ可能性を秘めているにも関わらず、作品を鑑賞できる場所が限られたり、難解で理解しづらかったりして人々を遠ざけている印象を長く抱いた。これらの疑問をアートの力で解決したいという発想の元、関心が薄かった人たちにも一瞬で理解できるような作品を作っている。
そして一瞬で理解してもらうだけでなく、鑑賞者を揶揄し、啓蒙するようなコンセプトを掲示することで、作家との共犯感覚を共有させ、新たなアイディアや思想を空想できるような 余白を提供している。

■略歴
2013 年多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻 卒業
2013 年 多摩美術大学卒業制作展 福沢一郎賞 受賞
2012 年 東京ミッドタウンアワード 2012 入選、オーディエンス賞受賞 2010 年 via art2010 入選

■個展
2019 年『for Notre-Dome』ラップル渋谷、東京
2018 年『Tokyo Story』Atelier Blancs Manteaux パリ、フランス 2017年『大村雪乃 個展』金沢しいのき迎賓館、石川県
2017 年『大村雪乃 壁面展示』ノースポートモール、神奈川
2016 年『大村雪乃作品展』南青山ミノッティ、東京
2015 年 『大村雪乃展』銀座、東京
2015年 『PerfectMidnight』恵比寿、東京
2014 年 『大村雪乃』rooms29,代々木国際競技場,東京
2014 年 『大村雪乃展』銀座三越,東京
2014 年 『Beautiful Tokyo』Valveat81 青山,東京
2013 年『Beautiful Pink』コニカミノルタプラザ、東京
2013 年『Beautiful Night』伊勢丹新宿、東京
2013 年大村雪乃- Wonderful Night - ギャラリーQ 銀座

■作品収蔵企業
株式会社ニトムズ蔵 株式会社コミュニケーションデザイン蔵 Swireproperties,Inc 香港支部蔵 ホテル アンダース上海支店蔵 株式会社アシックス蔵 株式会社コクヨ(香港支部)
株式会社コクヨ蔵 首都高速道路株式会社蔵 森永乳業 蔵 (NEW)集英社

■ワークショップコラボレーション
2019年小田急百貨店新宿 大型ワークショップ
2019 年宮城県ワークショップ主催
2019 年ヒルズブレックファスト登壇
2019 年 Yahoo X LODGE 展参加
2018年神戸みなと祭り 参加
2018 年 アトレ大井町大型ワークショップ
2018年 pechacucha night159 登壇
2018 年フランス #premierevision ファッション展示会場にて作品提供
2017 年 本日凸版印刷さんが主宰する WAO でアート講義
2017 年カレッタ汐留で参加型ワークショップ
2016 年フジテレビオンデマンドドラマ『 明日もきっと君に恋をする』作品提供
2016 年 歌手アーティストグループ、イトヲカシのニューシングル「スターダスト/宿り 星」のCD ジャケットに作品を提供
2015 年 あべのハルカス(天王寺) 作品制作パフォーマンス
2015 年 木村カエラ×大村雪乃 作品コラボレーション
2014 年 Onitsuka Tiger x ANDREA POMPILION 2015ss party 参加
2014 年 渋谷ロフト冬のイメージポスターに起用される
2013 年 ファッションブランド Sise とコラボレーション Sise 2014 Spring Summer
不定期個別ワークショップ主宰:六本木ミッドタウン、渋谷パルコ、代官山アドレスディ セ、イクスピアリ舞浜、東急ハンズ横浜、潮来図書館、KITTE(東京)
参加型大型ワークショップ主宰
2014 年恵比寿ガーデンプレイス、HEP HEP FIVE(梅田)、六本木ミッドタウン、ルミネ北千住、住友不動産(六本木一丁目)、北海道新幹線開通記念(札幌)、ルミネ池袋

■書籍
デビクロくんの恋と魔法 中村航著 表紙デザイン 東京ホタル (ポプラ社)表紙デザイン
その手をにぎりたい 柚木 麻子著 表紙デザイン 丸シール貼り絵 (レディブティックシリーズ) 書籍

■監修
雑誌、新聞取材
新聞 東京新聞、日経新聞 NYLON,SOUP,HiArt,パートナー,WWD、等

■コレクター紹介文
「複製の光」

私たちは目が見えている限り、視覚にほとんど依存した生活を送っている。太陽の眩しさとともに目を覚まし、その日の服を選び、常に時計の時間を気にしながら、スマートフォンを片手に人混みを避けながら移動する。都市部での生活によくある光景かもしれないが、これらの行動は、視覚があることによって瞬時に反応することができるとも言って良い。それは、服の色やファッションを選択するときの直感や、手帳を見ながら次の予定を組み立てて未来を想定する感覚、食事をする前に料理の見た目から味覚を予測するなど、私たちはあらゆる感覚を視覚へと変換してきたとも言えるだろう。そして、これらが起因するのは、電気信号による伝達空間をインターネットという仮想空間として高度に可視化してきた背景と密接に関係している。そういった意味で、私たちは電脳世界の発見によってあらゆるものを「視える化」してきた。  この「視える化」は、たとえば幽霊のようにあくまで存在として見えていなかったものを見えるようにするだけで、実態化させる段階までたどり着くことは難しい。幽霊が質量を持った生身の体として再生することは現状不可能であり、概念やアイデアを発案し、プレゼンテーションとして「視える化」させたとしても、それらが実現するまでには膨大な時間がかかることが多い。もちろんインターネット上に流通しているイメージも、液晶画面を通じて疑似体験することはできても、そこには物質という質量が存在せず、光という粒子の集合体である情報を通してでしか体験できない、絶対的な虚構が立ちふさがる。CG(コンピューターグラフィックス)などのように、イメージの世界ではあらゆるものを瞬時に生み出すことはできても、質量として具現化させるには膨大なエネルギーと時間が必要である。

 大村雪乃の「絵画」には、そういったイメージと物質の往来を体現するような手法が内包されている。大村は、市販されている文房具の丸いシールを画面に貼ることによって夜景を表現しているアーティストだ。大村が実際に足を運んだ夜景を撮影し、その写真をトレースして光源にすべて正円に重ねることで、作品の設計図をデータ上で作成する。これによって、煌びやかな光たちは数種類の画一化された大きさの丸へと変換され、液晶画面上で未だ光として見ていた抽象形態は、画面にシールとして配置されることによって質量を持った実態として姿を現す。とは言え、実際にデータ上の光をシールを貼ることで置き換えていく作業は一枚ずつ手作業で行われるため、一つの作品が完成するまでには根気のいる作業と相応の時間を要する。このような経緯で制作された大村の作品を、私たちは夜景の写真のつもりで近づき、それがシールで作られた絵画であると気づくとき、大量の電力を消費して発する光と、大量生産によって安価に作られたシールを消費してつくられている夜景が同調し、大量消費社会に対する違和感に気づかされる。そして、その制作過程によって大村の作品は「オリジナルであってオリジナルではない」という自己矛盾を孕んでいる。この自己矛盾によって、私たちの国である日本が明治時代から欧米を追従してきた背景と、その後独立し、ある種歪んだ形で発展してきた現代のこの国の様相をまざまざと見せつけているのではないだろうか。ここでは、これらの根拠を制作手法、歴史的引用、社会に対する活動の三つの関係性から説明していきたい。これらの要素によって、大村の作品を「現代の絵画」として浮かび上がらせる。
 まず、丸シールを光に置き換える制作手法は前述した通りなのだが、制作過程の中でつくられるデータの設計図について着目してみたい。このデータは”Adobe Illustrator”という図像レイアウトに特化したソフトウェアを使用して制作されるのだが、これによってつくられるデータには二つ特徴がある。一つは、データであるがゆえにいくらでも複製し、インターネット上で流通することができる点だ。現在画像データとして最も多く使用されている拡張子として”jpeg”と”pdf”が挙げられるが、これらに容易に変換し、丸い図像データで形成されているため解像度も自由に変換して生成することができる。そういった意味で、大村のデータ上の作品と「丸シールでつくられた夜景」という一文を添えることによって、真偽の判断はともかくとして実際の作品を介さずに世界中のどこにでも伝達することができる。
 二つ目は、解像度を自由に設定できる特徴を活かすことで、出力印刷を無限に拡大することができる点だ。たとえば、展覧会のサインや広告物として美術作品を印刷するとき、基本的には実物大以上の大きさで出力しようとすると、カメラがとらえることができる解像度の限界が存在するため画質が粗くなってしまう場合がある。それに対して大村の作品は、作品を印刷物に出力する際にシールを貼ってつくられた作品をカメラで撮影する必要性はなく、設計図となるデータを元に出力してしまえば画質が粗くなることは決してない。つまり、”pixiv”といった作品投稿サイトで見られるデジタルによって描かれたイラストレーションと同じように、高精度な流出を可能にしている。これは村上隆も同じ制作手法を用いており、村上もこの特性を利用して自身のブランディングやイメージの流通を行っている。ただ、液晶画面上で画像の優劣を判断される材料は画素数なので、ペンタブを用いずに正円を表す「ドット」ではなく、「正円である」という記号による点描のみで描かれた大村の作品は、その点でドットの集積で描かれるイラストよりも勝っているのかもしれない。シールの質感を印刷物上で伝える際は、作品全体を撮影したものだと質感の伝達が難しく、作品の一部分を拡大した画像を使用し、シールに変換される前のオリジナルと共に見る場合が多い。これによって、1点ものの作品をイメージとして流通させる際に、作品の「オリジナルであってオリジナルでない」虚構性を最大限に発揮することができるのだ。これまでは絵具や木、石といった質量を用いて唯一の作品を作り上げてきた美術史において、抽象表現主義の発達によって私たちが視覚する表層よりも、その本質であるイコン(=イメージ)が優れているとみなされてきた。インターネットの発達によって瞬時にイメージを伝達できるようになった現代でも、大村の手法のように質量を用いず、あるいは選ばずにイメージを伝達できてしまう点では現代美術の自然発生的な変遷を汲み取っているとも言える。

 次に、実際の夜景を元に丸シールを貼っていく手法には、西洋から延々と続く写実絵画と、写真の発明によってこれまでの絵画の目的から分岐・解放されていった印象派、そしてアメリカ美術が隆盛するきっかけとなったポップアートの三つの歴史的な流れをみることができる。大村の作品は、実際に足を運び、目で見て取材した夜景をもとに制作されている。つまり、現実に存在する夜景を丸シールを使って限りなく忠実に再現しようと試みており、ここにはリアリズムの精神が見て取れる。これは、西洋美術がこれまでの歴史の中で、描画対象を絵画空間の中でいかに生きているかのように存在させ、正確に再現するかを追求してきた背景と重なる。しかし、大村の表現手段は丸シールという、市販によって画一化された大小の正円と限られた色彩で表現しなければならず、多少の制限が課せられているとも言えるだろう。ただ、これらの規制された条件の中で作られた作品でも、実際の夜景のように「見えてしまう」ため、あまり問題にはならない。  ここで、大村が取材した夜景の「写真」を元に作品を制作していることに注目したい。写真は19世紀に発明され、これまで平面表現の主軸として存在していた再現性を見事に奪い取る形で誕生した。これによって絵画は肖像画といった対象を写し取り−そこには多少の誇張や修正があったかもしれないが−、それらを後世へと伝えていく役目を終え、絵具というメディウムそのものに着目するようになった。その萌芽として挙げられるのが印象派である。印象派は、絵の具を光や色彩といった対象を視覚するための元となる要素を直接描き出し、チューブ入り絵具という、携帯性と粘度が格段に向上した絵具の開発によって絵具そのものが物質感を作り出す表現を行った。ここには、写真を含めた目でとらえた対象をどのように表現するかという、絵画が写真からいかに逸脱し、写真をいかに超越するかの試みが行われてきた。大村の作品も似たようなアプローチを用いており、写真表現は写し取った像を現像することでしか私たちが視覚することができないものを、大村はあくまで絵画として、丸シールを絵具に置き換えることでシールそのものの物質を利用して表現している。遠くから見るとシールだと断定するのは難しいのだが、近づいて見ると紙の質感やシールが重なったときの隆起を見ることによって、素材の簡素さによるキッチュが露呈する。
 この、キッチュであるという要素は、ロンドンから飛び火してアメリカを席巻したポップアートの流れに強く含まれている。物質やイメージの大量生産・大量消費がはじまったのもこの時代からで、テレビや印刷によって流通しているイメージをモチーフにすることや、既製品を素材に作品を制作するレディメイドやシルクスクリーンといった手法もこれらの背景が元となっている。大村の作品もこれらの歴史的背景と非常に親和性が高い。しかし、大村はシルクスクリーンといった手法を用いず、あくまで丸シールというメディウムに固執し、絵具として捉えることによって絵画として作品を制作している。これは、しばしば芸術的の対語として呼ばれる機械的に抗う形で、手作業による唯一の作品なのだというアウラをまとわせようとする、美術家としての必然なのだろう。
 また、アンディ・ウォーホルや草間彌生をはじめとする、イメージの反復を題材にした作品はこの頃多く生み出されたが、大村はこれらの反復性から先を超えて、データによる再制作性と、誰にでも作品を作ることができる手法の画一性が含まれている。これは、物質とイメージの流通が飽和した現代における必然的な事象であると言えよう。では、それはなぜだろうか。
 大村の作品を制作する上で生成される「設計図」については前述したが、この設計図が存在することによって建築のように何度でも、設計図に沿って忠実に再現さえすれば全く同じ作品をいくらでも制作することができる。これは、丸シールという紙と粘着剤によって構成された安価な素材が劣化性を伴っているため、シールの色が退色し、粘着力が低下して剥がれたとしても再制作が可能という点で納得がいく。また、シールの位置さえ正確に貼ることができれば、個人差による作業速度の違いはあれど、誰にでも作品を制作することができてしまう。先ほど、手作業によってこの世で唯一のものであるというアウラを付与することによって美術作品になるという説明をしたが、ここで問題になってくるのは、大村自身が作品を制作しなければ作者の作品にはならないのかという点だ。この「作者性」をめぐる問題は、マルセル・デュシャンが便器にサインをすることによって作品にするコンセプチュアル・アートが誕生し、現在もこれが現代美術の主流となっている限り、作者性は問題として浮上しながらも、先述した村上隆やダミアン・ハーストなどが作品制作にあたって工房制(作品の需要供給の増加に追いつくため、工場のように大人数で作品を制作していく体制)を採用している点から、作品が実際に作られる過程よりも作られるきっかけとなる作者のコンセプトが重要であると言える。つまり、「大村の作り上げたコンセプト」という強力な磁場によって、大村以外の人の手によって制作された作品でも、第三者から見たときは「大村の作品」として認識されてしまうのだ。

 最後に、大村が作品を通じて行っている活動について触れておきたい。大村は、丸シールを製造販売する企業や美術による教育普及を目的とする団体と協働して、店舗や展覧会場などで作品制作を体験できるワークショップを開催している。本展も会期中常時ワークショップを開催し、多くの来場者に完成された作品だけでなく、制作過程の体験を通して大村の活動を知ってもらうことができた。ワークショップに参加した人は老若男女さまざまで、子供よりも大人の方が集中して制作する場合が多かった。同じ作業を地道に根気よく行うのは、子供にとっては少し飽きっぽいのかもしれない。
 また、来場者が多く口にしていたのは、「テレビで見たことがある」という声だった。大村はテレビや情報誌といったマスメディアにも多く露出しており、この点も他のアーティストと比べて特異な点だと言えよう。2012年に”TOKYO MIDTOWN AWARD”を受賞してから渋谷駅前のスクランブル交差点のディスプレイに、大村のプロモーション映像が長期間にわたって放送されていたのは多くの人の記憶に新しいだろう。この映像にはシリーズとして他のアーティストのものも存在していたが、作品のキャッチーな要素と、コンセプトの一つである「誰にでも作れるアート」という特性がマスメディアの目を引き、金沢という東京から遠く離れた地でも大村の存在を認知させることができたのであろう。素材、手法、コンセプトの全ての点から一貫して、大村の作品は「流通」に特化した作品だと言える。
 ワークショップを通じた大村の作品が増えて行くことと関連して、先述したコンセプトによる作者性に話を少し戻してみよう。この現象は、日本国内で全国的に開催される芸術祭に出品されている作品にも同じことが言える。アーティストの制作スタッフやボランティアによって共同制作され、場合によってはアーティストがほとんど手を触れない場合さえあるこの状況は、少し皮肉めいた表現をすると大衆性を利用し、協働という名の人的労働を消費することで生まれる作品が全国的に乱立している状況と言える。大村の作品も、 一人でも多くの人の手元に置くために流通させるにあたって、大村が管理する制作現場から離れて、大村の作品を知って各々でいわば勝手に制作し、作品のコンセプトが浸透していくのは作品の流通において新しい形なのかもしれない。ピカソは自身の作品をより多く流通させるために、生涯で約15万点、絵画だけで約15,000点描いたと言われている。これは作者自身が制作することで生まれた作品数としては史上最大で、これを越えるべく現代のアーティストは工房制といったあらゆる手段を用いて日夜制作している。しかし、仮に大村の「誰でも作れる」制作手段を用いて、日本国内のほとんどの人が作品を作り上げると優に超えてしまうだろう。そんな状況が、いつか到来する日が来るのかもしれない。

 マスメディアが発達した現代において、物質として存在することで芸術的価値を保たれている美術作品はテレビやインターネットなどの液晶画面、新聞や雑誌といった印刷物として私たちの目に触れることが多くなった。よりコンセプチュアルに、よりミニマルになっていく現代美術作品は、記号的に視覚として入ってくることで認識の容易さはあるものの、その質量が目の前に存在しなければ、作品そのものの良さや深い理解には及ばないのかもしれない。これが作品におけるアウラなのだと、長きにわたって呼ばれ続けてきた。
 その中でも大村の作品は、「シールである」というコンセプトによって、それがシールであろうとデータ上の記号、メディアによって流出したものであろうと、無限に作品を複製することができる。夜景を写真という媒体を使わずに、あくまで絵画の視点から点の集合体というイメージに変換し、絵具ではなく丸シールによって「描く」ことで、制作された作品と流通されたイメージの間で錯覚を引き起こす。これによって、イメージとして流通しているときは作られた素材と手法に驚き、いざ実物を完了するとイメージのままではないかと再度錯覚してしまうように、現実と虚構、写実と抽象表現を横断していると言えるだろう。
 現代美術の世界は、「芸術とは何か」を追求していく世界でもある。この永遠に答えのない問いは、一部の富裕層や有識者の知的好奇心を掻き立て、莫大な資金によって支援や売買が行われている。これに対して大村の作品は、素材とイメージの価値転換が芸術であるとあらかじめ設定し、これをいかに普遍的に作品に落とし込み、多くの人に理解してもらうかを徹底したものである。これまでマイノリティにのみ共有されてきた芸術は、美術館や芸術祭をはじめとした普及活動によって徐々に開かれたものへと変化している。大村の作品と活動も、無限に増殖する光のように、芸術が大衆へと浸透するための大きな一手となることに期待したい。

<大村雪乃の「脳で見るための絵画」>
  『私が物に追いつき、物に到達しうるためには、それを<見る>だけで十分なのであって、見るということが神経機構のなかでどのようにして起こるのかなどということを知らなくてもかまわない。私の動く身体は目に見える世界に属し、その一部をなしている。だからこそ、私は自分の身体を<見えるもの>(la visible)のなかで自由に動かすことができるのだ。』(「目と精神」M.メルロ=ポンティより)

   大村雪乃の丸シールによる作品「Beautiful midnight」を初めて見たのは2010年のラフォーレ原宿で開催された「the six 2010」展だった。原宿はファッションの街で知られた多くの若い人たちが賑わう街、雑踏をかき分けてたどり着いた会場に、大村が描いた夜景が展示されて、喧騒と静けさを作品の中で表現していたことを今でも鮮明に、記憶の中にある。
   大村の絵画は油彩やアクリル絵具を使用して描く、マチエールのある絵画ではない。一般に市販されている丸いドットのシールで、この丸シールは文具に使うために考案された裏側に粘着性のある工業製品でもある。丸シールは色彩としては数多くあるわけではなく、市販されている文具で10種類以上もあるのだろうか、この丸シールは光の三原色のように重ねることで距離に応じて光となって見える、私たちの視覚の中で再生されて風景となって立ち上がる。身体と画像の距離が、ある一定の距離に応じて視覚の中で風景として再生され、さらに何処かで見た情景/夜景となって私たちの網膜上に再現される。地(背景/闇)と図(ドット/光)の関係性に照合し、私たちの記憶を支配する、見ることから見るものへと交換されて、奪われた視覚となる。まさにM.メルロ=ポンティの言葉のように視覚は身体の一部となる。  
 技法的には画家である大村が選択した風景を、画像処理をして、パソコン上にインストールさせる。その夜景の画面に碁盤の目のように縦のラインと横のラインをレイヤー上で作成し、光となるあらかじめ作成されたデジタルの丸シールをマウスで配置し、指先でクリックしながら、点を貼り付けるという根気のいる作業。丸シールは建物や橋のライトを光の点として捉え、1つ1つのライトの位置をパソコン上で配置する。その後パソコンで仕上がった原画を見ながら、黒く塗られたパネルの上に赤い糸をはりめぐらせて、パソコン上で仕上げた配置に合わせ、パソコンの画面を見ながら、縦のラインと横のラインの指定された配置図に、実際の丸シールを貼って完成させる。パソコン上でのシールはデジタル処理ではあるが、実際の作業はアナログの作業で、丸いシールは絵画を描くように、筆の代わりにマウス、絵の具の代わりに丸シールという方法で描いている。手は汚れることもなく、テレピン油の匂いもしないが、大村の描く夜景は光を描いたレンブラントや点画によって描いた新印象派のジュルジュ・スーラーの絵画のように、光によって描く絵画でもある。一見技法としてはピンセットで丸シールを貼っていく作業やパソコンでの処理からも従来の絵描きとは異なるが、大村は多摩美術大学の油画にて絵画を学んでいることから、たとえ絵の具を使用しなくとも、画家としての意識、絵画を描く視点からも純粋な画家そのものと言っていい。大村自身が作品を「シール・アート(芸術)」と名付けた所以も自らが画家としての意識を持ち合わせているからだろう。
   眼で見ることの視覚の機能には4種類の機能がある。1つにはものの形を判断する機能、三角であるとか丸であるとか形を感知する機能。2つに色彩を判別する機能、赤色であるとか黄色であるとか何万種類にも人間の眼は色彩を判別することができる。3つには文字を読む機能、「誰々を愛している」とか文字を読取る機能。4つに素材を判断する機能、柔らかな布であるとか硬い石であるとか、触覚を感知する機能がある。そしてこれらの4つの機能を通して見るものは「見えないイメージ」を「見えるイメージ」へと読み取る。大村の「シール・アート」には文字を読み取る機能はなくとも、これらの4つの機能がバランス良く動き、脳内に伝えることで丸シールの点は光に見え、光は連なることでラインとなり、そのラインを読み取ることで全体を構成して、その形が何処かの夜景であるらしいと認識をする。こうしたことからも大村の描く夜景は、経験と記憶の再生によって描かれた、眼で見る絵画というよりは脳で見るための絵画と言っていいだろう。
   そして見るものは夜景というイメージを手掛かりに、芸術という崇高的な力を借りて夜景を脳内に描き感動するのだが、ある距離を隔ててあるいは意識を元に戻した時に、見えていた夜景が丸シールという物質、しかも安っぽい素材と認識し、目の前に見えていた豪華な夜景の光は消え失せて「見ていたものは夜景でもなく、風景でもなくただの文具の丸シール」であることを知らされる。見るものは大村の仕掛けられた虚実の世界の中で自らを問い「真実とは見えない闇の中にある」ことを知らされる。
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